語学学習コラム(言葉の指し示す範囲)

27/01/2021

言葉の指し示す範囲について考えてみましょう。
この話は言語学や記号学の基礎としてよく出てくる話ですが、例えば赤色という色の指し示す範囲はどこからどこまでなのでしょうか。
青色から紫色を経て赤色に変化するスペクトルを思い浮かべてください。
もし紫色という概念がない場合、どこまで青色でどこから赤色でしょうか。
はたまた、犬は種類が多様ですがもし狼や狐といった言葉がなかった場合、どこまで犬と言うのでしょうか。
虹の色は日本では7色ですが、国によっては6色だったり5色だったりと多様ですね。
「色は文化的な背景を引きずっているかもしれないが、犬と狼は生物学的に全然別種だ」と言うかもしれませんが、この別種だという根拠に注目すると実は色の話と同じだということがわかると思います。
染色体が違う、というのは染色体の違いを犬と狼の違いの根拠として認めている価値観の中にいて初めて有効な言葉ですね。
家畜は犬、野生は狼、という分け方を根拠として認めている価値観の中にいても何ら問題はないわけです。
「科学的が根拠だ」という価値観と「生活上の利便性が根拠だ」という価値観は等価ですね。
狼という言葉自体がなければ全部犬になる価値観であっても不思議はないわけです。
青色は色温度何度から何度までで…というのと同じで、それが違うものであると認めること、価値を付けること、これがつまり文化なわけですね。

別の価値観なんて詭弁だと納得できない人もいるかもしれませんので別の例で考えてみましょう。
例えば、日本語や韓国語、中国語ではウサギはウサギです。
ですが英語ではRabbit、Bunny、Hareは別の動物です。
細かく訳せばアナウサギ、(ペット用)ウサギ、 野ウサギなどでしょうか。
石切り場ではBunnyはOKだがRabbitは崩落を招くのでタブーだったりします。
ドイツ語ではKaninchen、 Hase、 Häschenなどと分けられます。
Kaninchen は美味しいけれどもHäschenを食べるなんて人間のすることではない…なんてことにもなりかねません。

英語話者やドイツ語話者にとってはこれらの違いは当たり前のことですが、 日本語話者にとっては全部ウサギなので何が違うのかイマイチわかりません。
目の位置が違う、大きさが違う、生態が違う等々あるようです。
繰り返しになりますが、これが価値観の違いであり、ひいては文化の違いなわけですね。
鴨やアヒル、雁やガチョウなんかについても同じことが言えるかと思います。
鴨は美味しいけれど、アヒルはアレルギーがあるので食べられない…なんて話を聞いたことがありますね。

更に別の例として、あなたの腕について考えてください。
一般的に脇から手首、または肘から手首までのことを腕と呼びます。
この「脇」「肘」「手首」という名前が重要で、名前があることによってはじめて区別されるわけです。
「肘の真ん中から3cmほど手首側に寄ったところ」には名前がないから指し示すことができない、つまりは私たちの文化ではその部位に言語的な価値を認めていないわけです。
一方で「肘の真ん中から3cmほど手首側に寄ったところ」の位置にアクセサリーを付ける民族がいたとしましょう。
その場合、その部位には必ず名前がついているはずで、他の部分と区別している、価値づけているはずです。
つまりは「違いがあるから他の名前で呼ぶのではなく、他の名前で呼ぶから違いがある」ということです。

言語と違う話が続いてきましたが、言語の話に戻して続けます。

日本語では母音は「あ、い、う、え、お」の五つに区分されますが、これも「あ」という他の音とは違う音があるから「あ」という名前で呼ばれているわけではない、ということです。
「あ」が「あ」でいられる根拠は「い、う、え、お」とは異なる価値がある音と認められているので「あ」と呼ばれている、ということです。
若干ややこしい概念なので興味がある人は記号学についてでも勉強してもらえればと思います。

さてこれがどう言語の学習の話につながってくるかというと、発音の問題ですね。
日本語は母音を5個に分ける、つまり5個の価値を認めている文化なわけですね。
ところが分け方により諸説ありますが、韓国語では7~10個、中国語になると17~36個の母音に区分するわけです。
中国語の母音を17個として考えた場合、これら17個の音が日本語の5個のどれかと同じ音として割り振られている(もしくは価値のない雑音として聞き流されている)ことになります。
つまり日本語話者が中国語の母音を聞くと、「ㄛ」と「ㄜ」なんて同じ音じゃない?「ㄣ」と「ㄤ」なんて区別する必要あるの?となるわけですね。
言語の発音の勉強というのは、この音を区別する価値観を自身のなかに持つこと、を意味します。
逆に言うと、日本語という体系の中では「い、う、え、お」ではない音、かつ雑音ではない音を発音すれば、その音は「あ」として認識される、というのがポイントです。
当然「あ」として認識される音が同じ音ではない可能性がありますが、この発音の違いについて考えたことが、以前書いたネイティブスピーカーの話や訛りの話へと結びついていくわけですね。

面白いですね。

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